あの日の記憶と、二人の暮らし
著者:月夜見幾望


一渡りの風が吹いた。
草木の匂い、太陽の光を思いっきり吸い込んだ暖かな風。
永い冬が終わり、動物たちの巣穴に春の訪れを告げる風。
そんな風と並行して僕たちは大草原を走っていた。小学校からの帰り道。細い路地を抜けた先にあるパノラマのような広大な世界。
もちろん、そんなに広いわけじゃない。せいぜい東京ドームくらいの広さだろう。
だけど、季節問わず咲き乱れるきれいな花と、大地の波に飲み込まれる夕日、そして視界を彩る紅が、僕に聖地、あるいは異世界という印象を植え付けた。
どれほど走っていただろうか。地面に長く伸びた影の一つが不意に奥山のほうへ駆けて行った。


夕日に飛び込むうしろ姿。
真紅へと手をのばす親友。


そこに何かしら不吉な気配を感じたのはなぜだろう。
その未来(さき)にあるものが、今までと違うのだと、どうして気付いてしまったのだろう。

意味のわからない恐怖と不安にかられ、気がつけば夢中で親友の背中を追っていた。
足元にからみつく草を払い、喉も裂けよとそいつの名前を叫びながら。
そいつは僕に振り向くことさえせず、なにかに憑かれたかのように規則正しい歩測と呼吸で、木々の間をすり抜けていく。
山の頂上、ソラの果てを目指す旅人のように。叶わぬ願いを、それでも必死でつかみ取ろうとするかのように。
やがて、僕たちは大地の終着点にたどりついた。なにもない断崖絶壁の岩の上。そこにそいつは立っていた。
なにをするでもなく、ただ目の前の紅に染まりながら、じっと立っている。


眼前に屹立する鮮やかな紅い真円。


理由なんてそれだけだ。今日の夕日はいつもより綺麗だから。
その程度の理由で、そいつはソラへと一歩足を踏み出した。
おそらく、そいつには不安やためらいなんてなかったのだろう。宙に浮いた体はすぐさまソラへと堕ちていく。
親友の姿が視界から消える寸前、僕はそいつに向かってあらんかぎり手をのばした。
だが、つかんだものはただの虚空。つかみたかったものは永遠に失われてしまった。
その一連の光景を夕日は嘲笑う。
ヒトは決して自力では空へ昇れないのだと、僕に見せつけるかのように……
 
 
 
 
     一
 
 
 
ピピピピピッ
目覚まし時計が目覚めの時を告げる。時刻は午前六時ジャスト。
夏の太陽はもうとっくに世界に光を供給している。だが、人がそれに応えるのはもう少し後のようだ。街はあいかわらず沈黙の水面下を漂っている。
手をのばせば掴めそうな熱気の塊を、まるで雪を左右に分ける除雪車のように澄んだ声が四散させていく。

「竜儀(りゅうぎ)、そろそろ起きる時間だぞ」

雹李(ひょうり)の発する高い振動数の声は、階段をかけのぼり正確に竜儀の耳に圧力をかけてくる。
いつもは竜儀の方が早く起きて雹李を起こすのだが、今日雹李は部活の練習試合があるとかで、慣れぬ弁当を朝からつくる羽目になっている。
別にそれはそれで竜儀がこんな休日に早起きをする必要はないのだが、雹李が一人で料理をするという非日常的な出来事を竜儀が許そう筈もなかった。
魚や肉の種類さえ分からない姉に包丁を持たせたら、どんな命に関わる料理ができるか知れたものではない。
事実、今でも階下からグシャッっという奇妙極まりない不気味な旋律が間断なく続いている。
姉の先ほどの声も、弟を起こす意図とは別に、救済を求めているような響きが言葉の外側に感じられた。
そんな姉に半ば呆れながらも竜儀はしぶしぶ目を開いた。

視界に映るのは幼いころの映像ではなく、見慣れた自室。
焼けつくような煉獄の夕陽も、そこに堕ちていった親友の姿もなく、突起のないどこまでも平坦な日常の一場面。竜儀が最も心安らぐ風景だった。
緊張が解けたせいか、竜儀はフーっと安堵のため息をついた。

(夢か…)

もうだいぶ昔に置いてきたはずの古い記憶。だが、それは竜儀の深層には今も深く刻まれているらしい。
――当然だ。あのとき、親友を助けられなかったのは俺の責任だったのだから。
あのとき、もう少しはやく手をのばしていたら……おそらく、あいつは今でも楽しそうに笑っていたに違いない。

天井を見上げる。
いまでは、もうあいつの声も仕草も思い出せない。
廻っては消え、廻ってはまた消える。まるで、規則正しい歯車のように思い出しては忘れていった。
長年動き続けた歯車は、やがては錆びて止まってしまう。竜儀の中の記憶も同じように錆びついてしまっていた。
もちろん、錆びた歯車でもネジがあれば再びまわりだすだろう。
だが、写真やその他の形見はすべて処分されてしまったのか、記憶を再起する手がかりとなるものは何一つ残されていなかった。
もとより幼いころの影でしかないのだから、忘れて当然なのかもしれない。
そんなことを考えながら私服に着替える。そろそろ下におりないと近所から悪臭の苦情の電話がかかってくるかもしれない。

「おはよう姉さん」

眠い目をこすりながら階下の食卓に入ると、果たしてそこは手遅れの正に一歩寸前の様相を呈していた。
鍋の中身は醜悪なる黒い液体で満たされており、そもそもの原型を留めてすらない。これで、爆発が起こらなかったことの方がむしろ不思議なくらいだ。
まな板は正体不明の塊によって蹂躙され、変色の限界を迎えつつあった。
そして、この生物化学実験室のような異空間を形成した調理者は、研究者よろしく、対象をモルモットでも見るような目つきで観察していた。

「ああ、おはよう竜儀。早速だが、この異物をなんとかしてくれ」

普通、自分がまいた種は自分で摘むのが道理だが、雹李一人ではそれすらも成し得るか疑わしい。
本人もそれを自覚しているのか、こういう場面では姉としての立場も矜持も投げ出して竜儀を頼ってくる。
それこそが竜儀を悩ます近因の一つであることは言うまでもないだろう。

「わかった。片付けはやっておくから、姉さんはゴミを出しに行ってくれ。」
「はいはい。ったく、どうして私は料理が上達しないのだろうか。つくづくおまえが羨ましいよ」

自身の不甲斐なさを嘆きながら、雹李は部屋を出て行った。
まあ、姉の気持ちもまったく分からない訳ではない。高校二年の竜儀と違い、一つ上の雹李は受験という檻に囚われている。
もう一巡り季節が廻れば雹李は大学生として自分の道を歩むことになる。そのためにも必要最小限の生活技術は身につけておきたいのだろう。
部屋の隅には、昔、竜儀が買った料理関係の雑誌が乱雑に散らばっている。

余談だが、竜儀たちの両親は二人とも既にこの世を去っている。
母、坂崎弘江(さかざきひろえ)は二十八歳の若さで交通事故により亡くなった。
深夜の飲酒運転が原因だったらしいが、詳しいことは知らされていない。
当時、竜儀と雹李はまだ二、三歳だったから、父も親族も酷な真実を幼い子供に話すのには抵抗があったのだろう。
二人は、長期の海外出張という仮初の偽造案を告げられ、実際に母が死んでいたという事実を聞かされたのは小学校に入学してからだった。

そうと知っても竜儀は特別驚かなかった。
あまりに一緒に過ごした時間が短かったため、母の影はおぼろげに霞む輪郭さえ定まらなかったのだ。

一方、父の直人(なおと)は世界に名を馳せるほどの偉人だった。
機会があるごとに海外に赴いては多大な功績を残し、一部の組織では首位(トップ)にまで上りつめていたらしい。
莫大な財産を築きあげていた直人は、そのほとんどを自身の研究費と息子たちの生活費等にあてていた。
妻を失ってからは二人の子供の世話のために家を離れることは少なくなり、その類まれな才能を溝に棄てる選択を余儀なくされた。
常に最前線で研究を続けてきた父であったからこそ、その懊悩は余人では計り知れないものだったに違いない。

だが、父はどこまでも剛い人だった。自らの足跡を振り返る未練を蒙眛と一蹴し、がんで亡くなるまで平凡と平坦が織りなす人生を歩む決断を下したのだ。
当時の父の意志を曲げるのは、人の手で潮の流れを変えることに等しかっただろう。
自らの生き方を一片の曇りもなく是とした父を、竜儀は心から尊敬するようになった。
そうして父の背中を追う内に、竜儀は家事を含むさまざまな技術を会得していったのだった。
 

 
「ああ、暑っ! ちょっと外に出ただけでもう汗だくだ。これから部活の試合があるっていうのに」

竜儀が回想に浸りながら作業を続けていると、雹李が脂汗をかきながら戻ってきた。
タオルで汗をふきながら、気温に対してあらん限りの不平不満を吐き捨てる姉を横目で睥睨する。

凛とした横顔をちょうどいい角度で黒髪が隠している。少しボーイッシュな雰囲気を持つ雹李は、スポーツも万能でクラスの男子からも人気があるらしい。
しかし、それでいて汗を拭く姿は色っぽく、とろける様な吐息は大人の女性独特の甘い感じがした。

「そいつは残念だったな。こっちは誰かさんが創り出した外敵を駆逐するのにどれだけの労力と精神力を使ったことやら」

事実、汗の量は雹李より竜儀の方がずっと上だった。ついつい思いっきり皮肉と批判を込めて返した弟の言葉を、だが雹李はまったく斟酌しない。

「あれは仕方なかったんだ。誰だって初めのうちは試行錯誤しながら一つを向上させていくだろ。科学や医療だってそうだ。私はね、自分なりのオリジナルを生み出したかったんだ。」
「オリジナルにも限度ってもんがあるだろ。もとが解らなくなったら、その時点でそれは別物に成り果てる。大体、発展にはそれなりの基盤が必要だろ。不安定な土台の上に石を積み重ねてもすぐに崩れ落ちることくらいわからないのか」

雹李は、どこ吹く風で竜儀の台詞を聞き流す。
竜儀は深く嘆息した。世間の常識の範囲外の持論を持つ姉を説得するのは難しい。
無駄な時間を費やすより、さっさと朝飯を作って、この社会生活不適応者を家から追っ払った方が賢いのかもしれない。

「それはそうと姉さんはいつまで弓道部を続ける気なんだ? もう夏だっていうのに」
「ああ、次の大会が終わったら引退するつもりだ。まあ、あんまり長い間、射をおろそかにしていると腕がなまってしまうから、辞めてからも時々顔をだすけどな。そういうお前の方はどうなんだ。学園内の噂じゃ、剣道部でトップの腕前って話だが」
「まあ、一応そうだけど…あんまり誇れることじゃない。俺個人の力だけで勝ち取った訳じゃないからな」
「そういやそうだったな。で、今日も道場にいくのか?」

緑に囲まれたこの八王子市の一角、町を一望できる山の上に未だに時代の境界を越えていない古風の建物がある。
広さはゆうに学園の体育館の三倍はあるだろう。年季の入った古い木造の造りは、明らかに周囲の景観と風情を異にしながらも、悠久の時を経てなお不変である様子に、造った者の確かな技巧が感じられる。この建物に正式な名前はつけられていないが、今の当主にあたる人が剣の道場を開いていることから、人々は自然に道場と呼ぶようになっていた。

竜儀がここに通い始めたのは、もう五年も昔のことになる。
彩桜学園に入学したのと同時に剣を習いたくなった竜儀は、暇さえあれば道場に赴き、剣の修行に励んでいた。
さすがに高等部に進学してからはそう頻繁に通うことはできなくなったが、それでも竜儀の腕前は師範とまともに打ち合えるくらいにまで上達していた。

「そうだな、最近しばらく行ってなかったし、久々に打ち合うのもいいかもしれないな」

竜儀が首肯を返すと、どういうわけか雹李は深いため息をついた。

「なんだよ?」
「いや、別にお前の行動に口をはさむつもりはないけどな。お前も高校二年生なんだし、彼女の一人や二人つくって休日に遊びに行こうとは思わないのか? 今時剣なんか覚えても何の役にもたたないぞ」
「それはそうかもしれないけど、別にいいだろ。俺がやりたくてやっていることなんだから。」

そう誤魔化しながらも、竜儀の内心は少し揺らいでいた。
自分でもどうして急に剣を始めたくなったのか時々疑問に思う。
決して新しいことを始めようと思ったからじゃない。むしろ懐かしさに背中を押されるような感じだった。
しかし、過去を掘り返してみても剣道を見た憶えも経験した記憶もない。
それなのに、どこか奥深くで自分は剣と繋がっているのだと、半ば霧の中に一筋の光明を見出したような確かな確信があった。

「ふうん、ま、お前が楽しければ構わないけどな。あんまり行き過ぎて危ない真似だけはするなよ」

最後に姉としての忠告を残して、朝飯を食べ終わった雹李は家を出て行った。



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